COLUMN 体と心 2019.04.11

禅とマインドフルネスとの比較(6)

6.まとめ


①実践と目的
 マインドフルネスは、何かしらの効果を得るための手段・テクニックです。段階的にテクニックを習得していくことで、目的を達成します。
 曹洞禅は、人間は「本来仏である」という前提があります。そして、自己のはからいによって「本来の仏」が覆い隠され、働かなくなっているとしています。坐禅とは、悟りを得るための手段・テクニックではなく、習禅するための技術的段階もなく、ただひたすらに坐ることで、自己のはからいのない、本来の仏の姿を現しています。坐禅を行ずるとは、本来の仏を覆い隠している余計なものがすべて脱落して、「坐禅になりきる」ことなのです。

②こころのあり方と自己
 マインドフルネスは、意図的に注意を集中し、主観的な判断や反応をせずに距離をおき、客観的に観察し明確に言葉でとらえます。思慮分別することで、主観にとらわれない客観的事実として受け入れます。
 曹洞禅は、自己のはからいを忘れ去ります。思慮分別することは自己のはからいによる迷いであり、はからいが脱落すれば、無分別となります。無分別の無為が本来の自己の姿なのです。つまり、無分別の「自己になりきる」ことなのです。

③知的理解・自己のはからい
 マインドフルネスは、仏教の宗教的要素をなくし、知的に理解できるように形を変えたテクニックです。知的理解のもとで瞑想を実践し、心理療法として発展してきました。
 曹洞禅は、知的に理解することが迷いであるとしています。知的理解にとらわれないで、知的理解を超えた本来の自己・現実を感得します。

 マインドフルネスは、曹洞禅が基礎にあるとしていますが、自己・現実へのアプローチは真逆です。つまり、マインドフルネスによって知的に理解し、自己のはからいを持って対処しようとするほど、むしろ曹洞禅から離れて行ってしまうのです。結果、マインドフルネスと禅は異なるものになります。
 私たちは、知的な理解を好み、その知的な理解が現代社会を発展させてきています。マインドフルネスが、難解な禅を知的に理解できるように形を変えたことで、実際に社会貢献していることは、評価されこそ、否定されるものではないでしょう。また、禅が知的に理解するものではないことも同時に否定されるものではありません。知的理解の限界を超えることは、徹底的に現実や自己を明らかにしていくことなのです。そして、その徹底的な現実・自己の究明によって、執着のない涅槃に至るのです。

2018年度 日本応用心理学会第85回大会(大阪大学) 自主企画ワークショップ「カウンセリング、心理療法へのアジアからの発信(2)」 において発表した内容を加筆修正したものです。

体と心チーム 文学部 小室央允

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