COLUMN 体と心 2019.03.04

禅とマインドフルネスとの比較(3)

3. 瞑想の目的 -ストレス低減と莫図作仏-


   マインドフルネスは、ストレスの低減、不安の低減、うつの再発予防・悪化予防などを目的として行われます。仏教をもとにしつつも、その宗教的要素を取り除いた理論とテクニックによって構成されるマインドフルネス瞑想のプログラムを実践することで、その目的を達成します。つまり、マインドフルネスは明確な目的を持ち、理論とテクニックを習得することで、目的を達成するものです。

 曹洞宗の坐禅においてはどうでしょうか?『普勧坐禅儀』には「いわゆる坐禅は習禅にはあらず。ただ、これ安楽の法門なり」と記されています。これは「坐禅は、禅を習得するために行うのではなく、坐禅そのものが安楽である」という意味です。つまり、禅を習得することを目的としているのではなく、また安楽(マインドフルネスと比較するならば、ストレス低減や不安の低減など)を目的としているわけでもなく、坐禅は安楽のためのテクニックでもないことを示しています。目的でも、また目的を達成するためのテクニックでもなく、坐禅そのものが安楽なのです。

 坐禅は、悟りを得るために行っていると考える人もいるでしょう。『普勧坐禅儀』には「作仏を図ること莫れ」と記されています。これは「悟ろう、仏になろうと考えてはならない」という意味です。つまり、悟る(仏になる)ことを目的として禅を始めたとしても、坐禅や修行の際に、悟ろうと考えていることが妨げとなることを示しています。また、『現成公案』に「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」とあります。これは「悟りなど認めなくてもよい。悟ったというようなことをやめてしまえば何でもない。何でもないことが悟りである」ということです。つまり、悟ったと感じ、達成したと考えたら、それも迷いなのです。禅の悟りにはこれでいいという到達点はありません。悟ったという意識さえも脱落しつくしてしまうのです。また、『永平広録』においては「眼横鼻直」「空手還郷」とあります。つまり、「眼は横につき、鼻は縦についていることが分かった」「新たに持って帰ってきたものは何もない」という意味です。これは、曹洞宗の禅を学びに中国の宋に渡った道元が、修行の末、帰国した際、弟子に言った言葉です。弟子は、宋の曹洞宗の禅が素晴らしいものであると伝え聞いていたので、修行して帰ってきた道元に期待して禅のことを聞いたのですが、道元の返答はこのようなものでありました。つまり道元は、禅の修行によって、新しい何かを身につけたのではなく、むしろ余計なものが脱落した人間本来の姿を感得したのです。

 坐禅とは、仏陀が菩提樹の下で悟りを開いた姿です。したがって、坐禅そのものが、まさに仏の行いなのです。それは目的でもなくテクニックでもありません。何かを習得するのではなく、逆に余計なものが全部なくなって自己の正体(仏)が現れているのが坐禅なのです。つまり、坐禅を行うのであれば、「坐禅になりきる」ことなのです。

(つづく)

体と心チーム 文学部 小室央允

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