COLUMN 体と心 2019.02.13

禅とマインドフルネスとの比較(2)

2. 瞑想の実践 -マインドフルネス瞑想と只管打座-


 マインドフルネスは、瞑想による実践が重視されています。マインドフルネス瞑想では、まず注意集中を促す「サマタ(止)瞑想」が行われます。注意集中の瞑想法として用いられているのが、自己の呼吸に注意を向ける呼吸の瞑想です。呼吸への注意が安定してきたら、徐々に注意の範囲を広げ、身体の各部位や動作に注意を向けるボディースキャンを行います。そして、自己の体験や感情を客観的に観察し、言葉で明確にとらえて実況中継する「ヴィパッサナー(観)瞑想」へと発展していきます。歩く瞑想(ゆっくりと歩いている自分を実況中継する)や食べる瞑想(食べ物の形やにおい、食べている自分を実況中継する)などが、その代表です。止の瞑想と、観の瞑想とを区別し、止から観へと段階を踏んで瞑想を発展させていくのが、マインドフルネス瞑想です。

 禅ではどうでしょうか。中国の坐禅の指導書のひとつである『天台小止観』においては、坐禅瞑想における止と観について記述がなされています。そこでは、止と観とを便宜的に分けてはいますが、止と観を別々の瞑想とするマインドフルネス瞑想とは異なり、止と観は瞑想の両輪であるとしています。そして、どちらか一方に偏った瞑想は邪倒に落ちるとしています。つまり、それぞれ別々の瞑想として行うのではなく、その両方の均斉の取れたものが坐禅であるとしています。ただし、注意が散乱する際には、自己の呼吸に注意を向けて、心の中で静かに息を数える「数息観」を行うのがよいとも記してあります。この数息観は、注意を安定させるので、止の瞑想の要素だけに注目されがちですが、止観の均斉の取れた瞑想を行う坐禅においては、観の要素も含んでいます。数息観の注意の向け方は、一生懸命に努力して一点に注意を向ける能動的注意集中ではなく、呼吸していることに気付いているといったような、受動的な注意集中であると言えるでしょう。決して、呼吸だけに集中していて、他の事に気が付かない状態ではありません。

 曹洞宗においても、坐禅瞑想による実践が重視されています。曹洞禅は、ただ静かに坐るため、黙照禅とも呼ばれます。坐禅の際、注意が散乱する場合や、瞑想の初学者の導入法として、自己の呼吸に注意を向けて息を数える数息観を行うことがあります。しかし、それは本来の曹洞禅ではありません。本来の曹洞禅は、止であるとか観であるなどということにとらわれず、ただひたすらに坐る、只管打坐です。太祖瑩山禅師などは、注意が乱れた時は数息観を行うこともよいとしていますが、高祖道元禅師は、坐禅時の呼吸を整えるのに数息観を行うことは否定しています。いずれにせよ、マインドフルネス瞑想のように止や観といったような分別や、達成の段階などはなく、そのようなことにとらわれないで静かに坐るのが曹洞宗の坐禅、只管打坐です。

(つづく)

体と心チーム 文学部 小室央允

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