禅の歴史 ― 曹洞禅の源流を尋ねて(3)
鏡島元隆博士「禅学概論講義ノ-ト」より
インドでは古くより今に至るまで宗教者とは苦行者であると考えられている。しかるに仏教においてはこのような苦行を退けるのである。釈尊は現世の快楽に耽ることを退けたが、同時に苦行に専心することも退けたのである。釈尊からはそれらはいずれも誤った極端な考えとして排斥されたのである。後の禅宗では、「坐禅は、安楽の法門である」と言われたが、釈尊によって仏教の修行に取り入れられた坐禅は、少なくとも苦行ではなかったのであって、そこにインドの他の宗教の禅と仏教の禅との違いがある。
仏教に取り入れられた坐禅は、このように目的としては涅槃を理想とし、方法としては苦行を退けた修行である。仏教の理想としての「涅槃」(ねはんnirvāna)とは、吹き消すという意味の言葉であるが、それは煩悩の火を吹き消すことによって、苦悩のない状態に至ることである。この煩悩の火を吹き消すのは、智慧の光であって、仏教の理想はこの智慧を得ることにある。
仏教の「涅槃」は、通俗的には〝仏の死〟あるいは"一般人の死"の意味に用いられるが、「涅槃」の本来の意味はけっしてそのような意味ではない。「涅槃」とは、煩悩に覆われた人生に死んで、真に目覚めた人生に生きることである。したがって、「涅槃」とは人生の終わりではなく、「涅槃」を得た後に真に生きがいある人生がはじまるのである。
この「涅槃」に導く修行として、釈尊は「八正道」*1(はっしょうどう)を示したが、この「八正道」の最初は「正見」(しょうけん)であり、最後は「正定」(しょうじょう)である。「正見」とは正しい思想であり、「正定」とは正しい禅定である。死後において天に生まれるという思想や、体を苦しめることによって精神を清めるという思想は、仏教からみれば正しい思想ではない。このような誤った人生観・世界観に導かれた修行からは、仏教の理想である「涅槃」には到達できないのである。
したがって、仏教における禅は、正しい思想に導かれた「涅槃」を理想とした修行であって、そこにインドの他の宗教の禅と、仏教における禅との相違点がある。
(つづく)
*1…八聖道とも。四諦(したい)(苦諦・集諦・滅諦・道諦)の中の道諦、即ち理想の境界に到るための八つの実践であり、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定をいう。
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