駒澤大学に坐禅の授業を始めた澤木興道という人(3)
18歳で得度(とくど=出家)した澤木(さわき)老師(以下、澤木)は、丹波(京都府)で、西有穆山(※1)禅師の高弟、笛岡凌雲(ふえおかりょううん)に随身(ずいしん=側にいて仕えること)しましたが、笛岡のもとで、教学(仏教学一般)を学ぶことの重要さを教えられました。禅を理解するためには、先ず仏教の基礎知識をきちんと学ぶことが大切であることを教わるのです。
「外道(げどう=仏教以外の道)も坐禅をする、外形は同じだが、内容が違う。広く仏教の学問を知っていないと道元禅師の只管打坐もわからないだろう」と笛岡から教わります。「只管打坐」は〝ただ坐る〟のであり、そこに学問を持ち込んで坐るのではありませんが、その「只管」(ただ)という意味内容がわかって、なぜ〝ただ坐ればいい〟のかを納得できて「只管打坐」するのでなければならないのです。
笛岡の教えを受け、仏教の基本的教えを学ぶことを志した澤木でしたが、まもなく21歳で兵役に服し、日露戦争に従軍することになります。ところで澤木は生来、勇ましく度胸があって、命知らずだったといわれます。そんな澤木ですから兵役中、戦争の最前線において幾多の武勇伝をのこしています。
このことは、後の禅僧澤木に影を落とし、その武勇伝が少なからず批判を受けることになります。しかし、道元禅師の宗風を学び、坐禅に打ち込むようになった澤木は、これまでの自分は真の勇者であったのではないと悟り、仏祖の児孫としてもっとも恥ずべきことであったと懺悔(※2)します。
道元禅師の教えに、腰をかがめ、おとなしく、小さくなって、ひざまずき、そして真の勇者となったのです。「身心を調え、どんなことに出会っても、乱れない、乱されない、自己の本心を見失わない。これは真の勇者でなければできることではない。これぞ仏道修行であるのだ」と、道元禅師の只管打坐に、後半生を打ち任せていくのです。
(つづく)
※1 西有穆山(にしありぼくさん)…1821~1910 總持寺貫首、西有寺開山。江戸後期から明治時代の傑僧。『正法眼蔵』の提唱録、『正法眼蔵啓迪』は有名。 ※2 仏教では「さんげ」と読む。反省し悔い改めること
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