COLUMN 源流 2018.04.11

駒澤大学に坐禅の授業を始めた澤木興道という人(2)

 家を飛び出し、それはそれは苦難の旅を続け、やっとのことで永平寺に辿り着いた澤木(さわき)老師(以下、澤木)でしたが、簡単には入門は許されません。二昼夜飲まず食わずで頼み続け、とうとう作事部屋(※1)の男衆として寺に置いてもらえることになりました。まだ正式に僧侶になっていなかった澤木は、いわば土木作業員として住み込むことが許されたのです。その時の嬉しさは一生忘れられなかったといいます。

 その年は永平寺で年を越し、翌明治30年1月、天草(熊本県天草郡楠浦村宗心寺)の沢田興法(さわだこうほう)和尚のところへ行くことになりました。興法和尚の弟子と永平寺で知り合ったのが縁となりました。この年の12月8日念願かなって興法和尚について得度(とくど=出家)することになったのです。

 この頃から澤木は猛烈に勉強します。午後9時開枕(かいちん=就寝)の後から夜半過ぎまで、睡眠時間を惜しんで勉強し、まさに二宮金次郎のように、道を歩くのも本を読みながら歩きました。また、この頃からいっそう坐禅に打ち込んでいきました。

「坐禅の姿勢は、凡夫(凡人)の姿勢ではない、まさに仏の姿勢である。仏になれるこの坐禅こそ、人間のできることのなかで、最上等なものではないか」、そんな考えが生まれていました。「食うために生きるくらいなんでもないことである。しかし食うために一生を費やしてはもったいない。道(※2)のために命を全うしなければならぬ。道のために食えなければ飢え死にするまでのことだ」。18歳の時、こう一生の方針を決めるのです。

(つづく)

※1 作事部屋(さくじべや)…寺の建物などの修繕をする人の作業場。
※2 道…人として生きるべき道。ここでは仏道修行。

源流チーム 角田泰隆

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