禅の歴史 ― 曹洞禅の源流を尋ねて(26)
鏡島元隆博士「禅学概論講義ノ-ト」より
道元禅師の宗旨の特質についてみると、次の如くである。
まず第一に、道元禅師の宗旨の特質は中国禅を伝えながら、自分の立場を禅宗と称することを徹底的に退けたことである。禅師は師の如浄(にょじょう、1162-1227)を通して五家の中の一派である曹洞宗(そうとうしゅう)を嗣いだのであるが、禅師自身は自分の立場を曹洞宗あるいは禅宗と称することを非常に嫌ったのである。それはなぜかというと、禅宗といえば、仏教の中の一宗派になるが禅師の伝えた仏法は仏教の中の一宗派ではなく仏教全体を伝えるものであるという信念に立ったからである。禅師はこれを「正伝の仏法」と言い表しているが、禅師の立場はいわゆるの禅宗の立場ではなく、「正伝の仏法」の立場であるところにその特色がある。
第二に、道元禅師の宗旨の特色は、坐禅中心の仏法を唱えたことである。道元禅師は、これを「只(祇)管打坐」(しかんたざ)という言葉で示しているが、只管とは「ただ」という意味であり、打坐は「坐する」ということで、要するに「ただ坐する」ということである。日本臨済宗でも坐禅は重んじるのであるが、臨済宗においては坐禅の尊重は公案(こうあん)を伴うものであって、坐禅それ自体が尊重されるのではない。しかるに道元禅師は、坐禅それ自体を重んずるのであって、そこに臨済宗と異なる道元禅師の特色がある。
第三に、道元禅師の宗旨の特色は、修行と証を一つにみたことである(修証一如)。只管打坐とは、ただ坐することであるが、ただ坐するとは坐禅を何らかの目的のために行わないことである。したがって、それは悟るための修行ではない。禅師は坐禅を「さとり」(悟り)に至る手段とするものを待悟禅(たいごぜん)として強く排斥したのである。道元禅師の立場からすれば、修行を積み重ねてしかる後に「さとり」(悟り)に至るのではなく、修行の一歩一歩が「さとり」(この意味での「さとり」を「証」という)の一歩一歩であるとする。道元禅師はこれを「修証一等」(しゅしょういっとう)といい、あるいは「本証妙修」(ほんしょうみょうしゅ)として、修行と証りとはいずれが初めで、どちらが終わりというようなことはできないと述べている。このような「修証一等」の坐禅を主張したところに道元禅師の宗旨の特色がある。
(完)
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