禅の歴史 ― 曹洞禅の源流を尋ねて(20)
鏡島元隆博士「禅学概論講義ノ-ト」より
看話禅(かんなぜん)と黙照禅(もくしょうぜん)の対立は、大慧(だいえ)と宏智(わんし)によって代表された。大慧は口を極めて黙照禅を「黙照の邪禅」と攻撃したのに対し、宏智も「看話の妄風」と称して看話禅を非難し、互いに相手を攻撃するに至った。それゆえに、禅は六祖慧能の時に、南北の対立を生んで慧能系統の南宗、神秀系統の北宗とが互いに争ったが、宋の時代になると、同じ南宗禅の系統から再び看話禅と黙照禅との対立が生まれたのである。
このような対立が生まれたのは、禅の目的は坐禅を通して、人生・社会に対する智慧を獲得するにあって、その点において看話禅も黙照禅も異なるものではないが、しかしそれにいたる方法として自ら坐禅を先とし、智慧を後にする立場と、智慧を先とし坐禅を後にする立場に分かれるのである。
看話禅は公案の工夫によって悟りに達しようとするのであるから、坐禅より智慧に重きを置く立場であるが、いくら看話禅が坐禅より智慧に重きをおくといっても、禅である限り、その智慧は坐禅に基づくものでなければならない。反対にいくら黙照禅が智慧より坐禅に重きを置くといっても、その坐禅は智慧を伴わなければ無意味である。したがって、黙照禅を看話禅が攻撃したのは、智慧を伴わない坐禅を非難したのであり、また黙照禅が看話禅を退けたのは坐禅を伴わない智慧を非難したのである。看話禅も黙照禅もその本来においては、坐禅と智慧一体の立場であるからして、いずれも他を非難し、攻撃する理由はないのである。
それゆえ、大慧を宏智は、禅の指導の方法の上では争ったが、その私的交友においては互いに密接であったと伝えられる。看話禅も黙照禅もいずれも六祖の南宗の流れを汲むものであるから、その対立は禅の宗旨の上では相違ではなく、禅の指導方法の相違に過ぎないのである。
(つづく)
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