禅の歴史 ― 曹洞禅の源流を尋ねて(18)
鏡島元隆博士「禅学概論講義ノ-ト」より
五家時代は禅が経典文字の権威から解放されて、自由活発に発揮された時代である。しかし、経典や文字を離れて、禅が自由に発揮されると指導者の個性の相違に従って、禅がそれぞれ異なった手段で発揮されることになる。唐末から五代にかけて、五家の分派を生んでそれぞれ家風を異にするにいたったのは、これがためである。
それゆえに、五家は五派の分派を生んだが、それは五家によって禅の教えに相違が生まれたのではなく、同じ禅をどのように発揮するかの指導手段の相違に過ぎないのである。
後の天目山(てんもくざん)中峰明本(ちゅうほうみょうほん、1263-1323)は、五家の家風の相違について、
臨済は、痛快(りんざいは、ごうかい)
匠仰は、謹厳(いぎょうは、きんげん)
曹洞は、細密(そうとうは、さいみつ)
雲門は、高古(うんもんは、こうこ)
法眼は、簡明(ほうげんは、かんみょう)
と述べている(『山房夜話』さんぼうやわ)。これらの相違は、指導者が学人を指導する手段の相違であって、禅そのものの相違ではないのである。
しかし、このように禅が五家に分かれたことは、一面から言えば、禅の発展であるが、その反面、弊害が現われてくることとなった。元来、五家の禅で「不立文字、教外別伝」(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん)を唱えたのは、経典や文字に対する執着を離れさせるためであって、経典や文字が無用であるという意味ではなかった。しかし、後にはこれが誤解されて経典や文字が文字通り無用であるとされた。
また、言語や文字に依らないで、直接行動で示すことは、元来、言語や文字の研究に行き詰まった者に対し、その行き詰まりを解く鍵を与えるものであったから、後にはいたずらに奇を示すことが禅であると考えられるようになった。また、五家の対立はそのはじめはまだ互いに優劣を争うことはなかったのであるが、後には互いにこれを争うようになった。
たとえば、宋代のはじめにできた禅宗第一の書といわれる『碧厳集』(へきがんしゅう)について見ると、これに偈頌を書いた雪竇重顕(せっちょうじゅうけん、980-1052)は雲門宗の人であり、これを評唱した圜悟克勤(えんごこくごん、1063-1135)は臨済宗の人であって、その集めるところの百則の公案は、五家に通じて行なわれたものであって、宗派の別によって左右されることはなかった。
しかし後世になると、五家の中に優劣の争いが激しくなり、ついに互いに争うようにさえなったのである。五家の中でも臨済宗と曹洞宗の二派が最も盛んであったので、後には五家の対立は臨済宗と曹洞宗の対立となっていった。
(つづく)
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