STUDY 源流 2020.05.26

禅の歴史 ― 曹洞禅の源流を尋ねて(14)

鏡島元隆博士「禅学概論講義ノ-ト」より

 慧能の宗風は、南方において頓悟*1(とんご)を中心としたので「南頓」(なんとん)といい、神秀の宗風は北方において漸修*2(ぜんしゅう)を中心としたので「北漸」(ほくぜん)といわれる。かくして禅は、慧能と神秀によって「南頓北漸」の二宗に分かれ、互いに争われるにいたった。この話は禅宗では「南頓北漸」の争いとして有名な伝説であるが、今日の歴史的研究によるとこれは事実ではないとされている。歴史的に明らかにされたところでは、神秀は後の禅宗からは常に排斥されているが、当時においては六祖として一般に認められていたのは慧能よりむしろ神秀であった。

 神秀の伝記をみると、神秀は学問においても、五祖弘忍の700人の門下の第一人者であったばかりでなく、修行においても優れていて五祖自身「東山(雙峰山)の法はことごとく秀(神秀)にあり」とこれを誉めたといわれる。それゆえに五祖の門下はすべて神秀に心服していたのである。したがって、後世の禅宗によって排斥されるような人物ではなかったといわれる。

  慧能が遠く南方に宗風を振るったのに対し、神秀は北方に宗風を興して則天武后*3(そくてんぶこう)の帰依を受け、禅宗第六祖と崇められたようである。その門人の中で慧能を謗るものがあると、慧能は天性の禅者であるとして、自分の道の遠く及ぶところではないと戒めたという。また、中宗*4(ちゅうそう)のために慧能を帝師として推薦しているのである。このように神秀は決して慧能と六祖の位を争うような人物ではなかったといわれるのである。

 なぜかというと、それは慧能と神秀の間の二人の問題ではなく、その門下より起こったものである。すなわち、慧能の弟子に神会(じんね、684-758)という人がいるが、この人が南頓北漸の争いの発起人である。神会は六祖の位を占めたのは慧能であり、慧能こそ禅宗の正統であると極力主張したのであって、これに対して神秀門下も神秀こそ六祖であると主張し、これがために各々の門下が互いに反目するにいたったのである。

慧能と神秀それぞれの門下は「南頓北漸」として争うにいたったが、神秀系統はその後振るわなかったのに対し、慧能の系統はその後多くの人物が輩出した。それがために、後世、禅宗の六祖といえば、神秀を指さずに慧能だけをいうにいたり、慧能は中国禅の大成者といわれるにいたったのである。

*1…段階を踏まず一足飛びに悟りを得ること。
*2…段階的に修行して悟りをえること。漸悟ともいう。
*3…中国、唐の高宗(第3代の皇帝)の皇后。
*4…中国、唐の第4代の皇帝。

(つづく)

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