禅の歴史 ― 曹洞禅の源流を尋ねて(13)
鏡島元隆博士「禅学概論講義ノ-ト」より
第五章 中国禅の形成
達磨の禅は、三祖僧犧(そうさん)の時代までは、インド禅とほとんど異なるものがなかったが、四祖、五祖を経て次の六祖慧能(えのう、638-713)に至ると、インド禅とは異なる中国禅の特色が発揮されることになった。したがって六祖慧能は中国禅の大成者といわれる。六祖慧能を境として禅はインド禅から中国禅へと大きく転回したのである。それゆえに六祖慧能は達磨(だるま)に次いで中国禅宗で最も重要な位置を占めるのである。
慧能は、伝記によると、出家前は生活のために薪を売って母親を養っていた一行商人であった。たまたま行商の間に、一人の客が『金剛経』(こんごうきょう)を読むのを聴いて悟りを開いて直ちに黄梅山に登って五祖弘忍の下に入った。しかし、五祖の門に入って八ヶ月経っても米つき部屋に通わされて米つきの仕事をさせられ、親しく五祖から教えを受けることはなかった。たまたま、五祖の後を嗣いで六祖の位を占める人物を選ばれることになった。五祖は700人の門下にそれぞれ自分の心境の偈を作って示すことを命じた。このとき、第一座の神秀(じんしゅう、606?-706)が、
身是菩提樹 身は是れ菩提樹
心如明鏡台 心は明鏡台の如し
時時勤払拭 時時に勤めて払拭して
勿使惹塵埃 塵埃を惹(ひ)かしむること勿れ*1
という偈を示したところ、700人の門下はすべてこれに感心して、これに対抗して偈を作る者はなかった。しかるに慧能はこれを聞いてこの偈はいまだ至らないものがあるとしてこれを訂正して次のような偈を作った。それは、
菩提本無樹 菩提は本(もと)より樹(じゅ)無し
明鏡亦非台 明鏡も亦た台に非ず
本来無一物 本来無一物
何処惹塵埃 何の処にか塵埃を惹(ひ)かん*2
というものである。弘忍は慧能の偈を見て、これこそ六祖の位にふさわしい人物であるとして、ここに慧能に六祖の位を嗣がせたのである。六祖となった慧能はその後、南方に至って禅を広めたが神秀は北方に留まって禅を広めた。それゆえにこれより後、禅宗は慧能を中心とする南宗禅と、神秀を中心とする北宗禅と南北二宗に分かれた。
*1…この偈の意味は、「身体は菩提樹のように素晴らしく、心は清らかな明鏡台のようなものである。つねに勤めて身体や心をみがいて塵や埃が付かないようにしなければならない」という意。
*2…この偈の意味は、「そもそも、菩提(さとり)は樹ではなく、明鏡もまた台ではない。本来、実体としての一物もないのだから、どこに塵や埃が付くことができようか」という意。
(つづく)
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