駒澤大学に坐禅の授業を始めた澤木興道という人(5)
大正元年(1912)、33歳の時、澤木(さわき)老師(以下、澤木)は三重県松坂市養泉寺僧堂の単頭(※1)に就任します。参学の師を求めていた澤木は、西有穆山(にしありぼくさん)禅師の高弟(※2)丘宗潭(※3)老師に就き、法会があれば、宗潭に随身(※4)しました。その後、養泉寺を離れ、空き寺に入り、3年間、世間との交渉を絶ち専ら坐禅を行なう歳月を過ごします。米と梅干しと大根おろしのみの粗食の生活で、澤木は栄養失調になり、その風貌は、30代にして70の老僧と見紛われたといいます。
丘老師が熊本県の大慈寺に晋住(※5)するに従い、請われて大慈寺僧堂講師となり、半年の約束が、丘老師の遷化後も大慈寺に留まり、ここで丸6年を過ごします。そしてこの間に熊本の第五高等学校の学生たちの出会いがありました。
後に澤木は言っています、「わしの一生で、一番影響を与えてくれたのは幼い頃の、隣の表具屋で絵描きであった森田千秋さんと、青年時代に随身した笛岡凌雲方丈と、後年大慈寺時代の第五高等学校の生徒たちであった」と。澤木自ら述懐するように、この五高生との出会いが、後の澤木に大きな影響を及ぼしたといいます。高校生は、分からないことは分からないとハッキリ言いますし、神秘的・迷信的な教えは全く受け付けませんでした。澤木は、この五高生たちに鍛えられて、仏教を論理的・合理的に説くことの必要性を痛感し、既成概念を捨てて、生きた仏教をわかりやすく話す術を身につけていったのです。五高生との交渉のなかで、既成宗教的な一線を脱し、生きた仏教を説く澤木は、その後、人々の心をしっかりと把んでいきます。
大正11年(1922)、43歳の時、大慈寺を去り、在家信者と五高生の寄進を受けて、熊本市楠町に一軒家を借り、「大徹堂」と名付けて、参禅道場を開きます。しかしお金も尽き、そこも引き払わなければならなくなり、翌年、熊本駅の北西にある万日山の山中に移り住みました。昭和10年(1935)、56歳に至るまで、澤木は全国あちこち講演に出かけながら、ここを本拠として暮らしました。澤木がここに居るときは、いつも朝から数人の人が坐禅にやってきたといいます。
(つづく)
※1 単頭(たんとう)…修行道場で修行僧の指導にあたる役職。
※2 高弟(こうてい)…勝れた弟子のこと。
※3 丘宗潭(おかそうたん)…1860~1921。西有穆山について『正法眼蔵』を参究し奥義を究め、永平寺眼蔵会の第一回目講師を務めた。また永平寺監院、曹洞宗大学(駒澤大学の前身)の学長も務めている。
※4 随身(ずいしん)…師に付き随って学ぶこと
※5 晋住(しんじゅう)…住職として寺に入ること。
源流チーム 角田泰隆
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