SPECIAL 2019.03.20

ZEN, KOMAZAWA, HUMOR

仏教の素敵な言葉と出会うために、2015年駒澤大学に入学したコメディアンの萩本欽一さんと、長谷部学長が「禅・駒澤・ユーモア」というテーマを軸に対談をしました。
学長の「みんなを(いい意味で)裏切りましょう」という言葉のもと、駒澤に通った4年間を「最高に楽しい大学生活」と、萩本さんは振り返ります。その背景には禅との出会いや学長の忘れられない台詞、卒論、思わぬ再会などがありました。

駒澤で出会った忘れられない台詞

長谷部:欽ちゃん、お久しぶりです。

萩本:ほんとですね。学長さんになられてからは会えなくなりましたね。

長谷部:ですね。

萩本:一番最初に駒澤に来たとき。

長谷部:あのとき覚えてます?

萩本:はい。私が初めて駒澤に合格して、学校でちょっとお話ししたいからって。一番最初にお話を聞いたのが長谷部先生で。僕が駒澤に来て良かったと思ったのはね、「欽ちゃん、あのね。どうも先生たちがね、勉強で授業に来ないんじゃないか」って言ってるよっていう。

長谷部:そうでした。

萩本:「あぁ、みんな遊びと思ってるんでしょうね」と言ったら、「欽ちゃん、みんなを裏切ろうよ」って。いいでしょ、いい台詞ですね。で、僕がね、当然、先生の話に乗りますよって言って出ようとしたら、「欽ちゃん、ちょっと待て」って。「はい、何ですか」ったらね、僕を指差して、「これから鍛えるよ」って言ったのが最後の台詞。いいですね。あの台詞、忘れませんよ。

長谷部:私もね、そういうふうに言ったこと、しっかり覚えてます。

萩本:最後の「鍛えるよ」ってのは。

長谷部:やっぱりね、鍛えたいな。鍛えがいがあるなと、お会いして第一印象思ったんですね。世で活躍をされてる、あの萩本欽一さん。まあ、コメディの世界ではもう超一流。そしてそれだけの人気を博してきた方が、駒澤大学の仏教学部に入ったというのは、いろんな見方があったと思うんです、世の中では。
だけれども、私はそのときに欽ちゃんとお会いして強く思ったのは、この人は本気だなと。その本気度というのを確かめたいという思いが「欽ちゃん、鍛えるよ」という言葉になったんですね。

萩本:私ね、自分の人生でね、ああ、この人なんか好きだなと思ったときは、その人の言うこと聞く、そうすると人生は非常にうまくいくという。それを長谷部先生にすごく思ったの。ですから私、休んだ授業ゼロですからね、4年間。

長谷部:そうですね。それは素晴らしい。何よりも評価できるのはそこだと思います。継続は力。

萩本:それは先生が大好きだから。

長谷部:いやあ、ありがとうございます。

萩本:先生との約束をね、裏切りたくなかったってのがありますね。

仏教学部に入ったきっかけ

長谷部:欽ちゃん、ところで。仏教学部に入ったのは、そもそも何がきっかけだったんですか。

萩本:僕はですね、仏教って、読み方を”仏様の教え”って読んだんですね。仏様の教えっていうんだから、何かいいことを言ってるのかなと思って。そういう素敵な言葉に会いにこようと。

長谷部:一世風靡されたコメディの世界、芸の世界と、その仏教の教えの接点というのは、入学を考えた時点ではどのように思ってらっしゃったんですか?「入ったらこういうことができるんだろうな」、それは「自分の今までの人生とこういうところでつながるな」というようなことはありました?

萩本:初めはなかなかつながらなかったですね。こんなにくそまじめで、学問が笑いにほど遠いなというのがありましたね。でも4年の間にいろんな先生にお会いして。
ある先生にね、「先生、3年から仏教と禅、どっちか好きなほう選べって、私、どっち選んでいいか分からなかったんですけど、禅と仏教はどっちが面白いんですか」って言ったら、その先生は「禅」と答えたんですよ。「はっきり言いますね、先生。何で?」と言ったら、「仏教は長い。禅は歴史でいうとこれからだ。禅はこんなに短くてたくさんあるんだから、こっちのほうが深く入るんで面白いよ」って。「先生と2年のときにお会いしたかったですね。」「ああ、残念だったね」って言われたんですけど。
その先生の授業とったら、禅の面白さというかちょっと面白くなってきたぞっていうのがあって。先生に言ったの。「授業が全部オチがない」って。「禅の話をするとき、禅語録とかあるんですから、できればオチをつけていただきたい」と言ったら、先生が授業で全部オチつけてくれた。そうしたら禅の面白さがね、ものすごく湧いてきて。そんなね、生徒の言うこと聞いてくれる先生は、仏教学部じゃないとなかなか出てこないんじゃないですかね。そういうアドリブも付き合ってくれるという。

禅とユーモアの共通点

長谷部:今日は、「禅・駒澤・ユーモア」というテーマで、お話をさせていただいているんですけれども。禅あるいは仏教と、ユーモア。この共通点があるとすれば、どんな点にあるのか。欽ちゃんはどういうふうにお考えですか。

萩本:僕はですね、まずは「禅とは何か」って、相当の人に聞きました。それでびっくりしたの。同じ答えが返ってきませんでした。ですから禅が一体どういうものなのかっていうのがよく分かりませんでした。みんな言うことが違う。
あるとき、僕がそうやってたくさん質問してたら、ある教授が、「こないだ禅とは何かっていうんでは最高の言葉をテレビでやってた」って言うんだ。「それ、教えてください」って言ったら「禅とは、普通のことを一生懸命やることだ。」「それ、禅で一番いい言葉ですか。誰が言ったんですか」って聞いたら、「それは自分が言ったんだよ、テレビで」って。先生、合ってますか?

長谷部:ある意味では、それは的を射てると思うんですよね。

萩本:そうですか。

長谷部:ユーモアってなかなか、その道のスーパースターにこういう言い方するのはどうかと思いますけども、難しいですよね。ユーモアって何?と聞かれたときに、なかなか私なんかはそれを答えにくい。頓智とか、機知とか、そういうものに相当する禅の世界のいろんな現象ってのはたくさんあるわけですよね。落語で言う落とし噺のように、あっははっていうような笑いを誘うようなものでもない。なるほどな、くすっと、笑わせるような、そういうものがある。だからユーモアをそういうレベルまで広げて考えれば、それは確かにユーモアなんですよね。
ユーモアの中のウィットってあるでしょ? 機知に富んだとか、頓智。一休さんのね。うーん、なるほどな、そういうふうに考えるのか、憎いな。と思わせるような部分というのが、禅の中では私はとても魅力を感じるんですね。禅の言葉なんかも、そういうものを含んでいるものってたくさんあるわけです。それが、どすんと落とすんじゃなくて、ちょっと落とすような、くすっとさせるような、そんな感じがするんですね。

萩本:仏教とちょっとユーモアみたいなもの。僕としてもちょっと笑えるというんでね、時々先生に話し掛けるんですけども。
僕、好きだったのは、『自未得度先度他(じみとくどせんどた)』。自分より先に、他の人を船に渡せって授業でやってたんです。いいですよね。自分が乗るんじゃなくて先に乗せるっていう。なかなかいい言葉なんですけど、「先生、そのことをもし相手が知ってたらどうなんですか」って。「先にどうぞって言ったら、いえいえ、あなたこそどうぞって、その人もその言葉を知っていて、両方でどうぞどうぞって言ってたら向こうにいつまでたっても渡れないですよね」って聞いたの。そうしたらね、先生がうまいこと言いましたよ。「授業中に、そんな質問受けたことがない。だから私は用意がない」って。これもちょっとしたユーモアというかね。
そうしたらね、ちょうどお坊さんがいたの。「おい、お坊さん、おまえ何か持ってるかい、言葉を」って聞いたの。そうしたらそのお坊さんが、「それは船をお先にどうぞと言われて『ありがとうございます』っていうのも得度先度他じゃないですか」って。「そうだよ、欽ちゃん。『ありがとう』もそうなんだよ」って、ああいう全ての会話がなんか仏教のね….ちょっと先生も、笑いに参加してくれてるという気がしましたね。

禅と芸の世界においての「修行」

長谷部:禅の修行をしているお坊さんたちの在り方というものが禅の歴史をつくってきて、禅宗の場合は、ほんとに日常生活それ自体が修行だというように言うわけですよね。
「さあ、これから修行するぞ」とは必ずしもさせていない。
もう普段の日常の立ち居振る舞い、それ自体が修行だとなってくると、日常そのものの中で、そういう一つの自分がそこで生かされていて、その中で、自分を一歩一歩高めていく意識というのが培われていきますよね。だから彼らの修行って、日常の中の経験値。それがすなわち修行につながる。そういう意味では、禅の修行というのは極めて特徴的ですよね。学校の先生もそうなんですけれど、お坊さんたち、修行者、仏教者を見ていると、大上段に構えない。普段の息遣い、言葉遣い、立ち居振る舞い、それ自体が非常に見させるし、考えさせるものがある。
例えば芸の世界も、ある意味で修行だと思うんですよ。修行を一生懸命やる中で、経験的にこういう笑いが本物だということを確認していくということが、お互いに経験値と経験値のぶつかり合いっていうところに、私は、禅と、欽ちゃんのような芸として自分を磨いてきた人との共通点を感じることがあるんですよ。

萩本:僕、大学来てね、あー、この大学来て良かった、仏教学部来て良かったと思った最初の言葉がですね、ずーっと聞いてるとね「修行」って言うんですよ。「勉強しろ」って言葉ひとつも出てこないの。みんな「修行」せよと。よく考えたら私の師匠も私の世界では「修行せよ」って言ったの。今、テレビがつまんなくなってきたのは、みんな「勉強」してるんですよ。そうじゃなくて「修行」する世界っていうのがあるんです。つまり「修行」って何かっていうと、教えるじゃなくて察しろって。悟るって自分で気付くでしょ。つまり教えたことを学ぶんじゃなくて、師匠の姿見て気付けっていう。
この4年間でね、「学問」って言葉が出てくるかなってずっと考えてたら、とうとう3年の最後に出てきました明治の時代に仏教を「学問」にした立派な方がいるって。仏教をきちんとまとめた優れもんがいたって。そのときにね、先生が「優れもん」って話をしてたんですけど、私、「ばかもん!」って心で叫んだの。「修行」という最高の言葉が仏教で僕は良かったのに、誰だ「学問」にしたのはっていう。
「修行」ってのは、もう駒澤大学とコメディアンの世界しか使ってないね。あと、包丁研いでいる方も勉強しろってやってないと思う「おめえ、俺見て修行しろ」って。僕はね、これからサラリーマンも「修行」する時代に入るんじゃないかって思うんです。新しいことを気付くってのは「修行」だと思います。ですから、素晴らしい4年間だったなと。

思わぬ再会

萩本:仏教じゃなくて駒澤大学に来て良かったなと思ったのは、駒澤の事務員の方がどうしても欽ちゃんに会わせてくれって教授に頼んで、授業の前にいらっしゃったの。その方が、「あの、欽ちゃんにお礼を言いたくて来たんです」って言うの。「私にお礼って何でですか」って聞いたら、「私、むかーし、もう何十年も前にテレビの公開放送、見にいったんです」って。「ちょうど母と父が、なんだか別れる話をしていて、そのときに自分の笑ってる顔がテレビでぱーんと映ったんです」って、アップで。あははーって欽ちゃん見て笑ってるの。それをうちで見ていたお父さんとお母さん。特にお母さんがお父さんにね、そのテレビを見て「お父さん、この子の笑顔、なくさせるのやめましょうよ」って言ったっていうの。「どうもありがとうございました」って言われて。俺ね、テレビ長いことやってて、あー、テレビやってて良かったって思ったことないの。この台詞はね、テレビやってて良かったって。笑いって世の中にあってもなくてもいいもの。あったほうがちょっといいかなぐらいだなと思っていて、人のためになってると思ってなかったの。駒澤来て、こんないい台詞聞けたんですよ。いやあ、駒澤来て良かった。

長谷部:それは欽ちゃんは学生たちに伝えたいですか。

萩本:いやだって、そういう人たちが駒澤にたくさんいますっていう。生徒なんか結構ね、大人しくて黙ってる子いるの。いろんな人に話し掛けると、いろんな人生と出会えていいですよって。まず僕だっていきなり来て、先生といろいろ話して、何ともいい話をしてくれたし。

まあここで先生にひとつ文句を言うと、長谷部先生の厳しく言うところがちょっと見たいなと思っていて。先生の授業で卒論の発表をした人がいたの。で、僕、手を挙げて、「長谷部先生、今の卒論の良いとこと悪いとこ教えてください」って言ったら、先生はこう言ったんですよね。「えー、悪いところはありません。いいところは―…」って。何としてもね、悪いところを言わせようとしても言わない人ですね。それはどうしてですか。

長谷部:はい。

萩本:これはだから、仏教の教えなのか、禅の教えなのか、先生の親からの教えなのか、絶対言わない。

長谷部:それはね、でもね、私の教育観の中では、一番厳しい指導だと思ってるんです。

萩本:深いとこ。深い台詞出た。厳しい指導。

一番厳しい指導とは

長谷部:自分の問題点を自分で考える。人から言われてそこだけ直すっていうのは誰でもできるんだけど、本当にその人のことを知って、そしてどういうことが問題だってことを核心をついて言えるような関係ならいいけれどもね。例えば浅い出会いの中で、学問的な部分だけを見て指摘をしてもね、これは仏教とか宗教の勉強をしているっていうときには、必ずしも的確ではないかもしれない。やっぱりその人の生き様。欽ちゃんだったら欽ちゃんの生き様が、こういう形で駒澤大学に欽ちゃんを、ある部分では招く、あるいは引き寄せる、そういう部分があったと思うんですよね。だからそういう関係が分かっているからこそ、私は欽ちゃんには何も注文は出さないけれども、または出せるような立場でもありませんけれども。学生たちも「うーん、いいね」って言われたら誰だって分かるんだけど、「うーん、問題点は」と言ったときに、何が問題かというのを言われないのは、一番厳しいと思うんですよ。

萩本:もうこの台詞。ああ。ね、今もう、仕事をしたって、野球やったってスポーツやったって、ねえ、すぐああだ、こうだってじゃなくて、自分で。

長谷部:手取り足取りがね。

萩本:さすが、やっぱり修行。修行なのね。気付けっていう。

長谷部:それが自立性とか主体性なの。

萩本:それが一番厳しいんだっていうのが、また素晴らしいですね。

長谷部:それを厳しいと思ってくれたのが欽ちゃんだったと。

萩本:今年から入ってきそうな、駒澤の大学生になろうと思ってる君たち。仏教学部は倍率が高くなるよ。気を付けたほうがいいよ(笑)。先生はね、ご自分が学生に人気があるっての知らないでしょう。

長谷部:とんでもない。

萩本:あのね、なーるほど、ここが長谷部先生の魅力。

長谷部:今、私はね、欽ちゃんもご承知のとおり、学生ファーストって言ってますよね。で、それは大学としての一丸となっての方針にしてます。だからこの、催し物もその一環としてあると思ってるんですけれどもね、そこで大事なことは「何が学生ファーストなんだ」といったときに、おもてなしの学生ファーストではいけない。そうじゃなくて、やはりそこに自立性とか、主体性とか、そういうふうな心、力を学生の中から引き出してあげるってのが必要ですよね。それがうーんと考えさせるところがないと、自立的なものっていうのは生まれませんよね、これはね。だからそこのところがね、私の言う、まあ、いわゆる学生ファーストなんです。

萩本:でもあの、学生ファーストと言ってますけど、やっぱり教授ですね。なぜ悪いところを言わないか。そのほうが一番厳しいんだよっていう、これはちょっと素晴らしい言葉ですね。

長谷部:そうですか。

萩本:普通はそんなに優しいかいとかじゃなくて、いや、逆なんだもん。それのほうが厳しいんだよっていう。

その先を目指す『百尺竿頭進一歩』

長谷部:だから常に、向上心を忘れない。ここでいいんだっていうのはない。禅の言葉でも百尺の…長さの百尺の竿頭。竿ですよね。その先まで到達しても、そこからもう一歩進め、もう一歩進もう、『百尺竿頭進一歩(ひゃくしゃくかんとうしんいっぽ)』という言葉があるんですね。
それは仏の世界に、到達する、悟るっていうのが例えば竿の頭のところだとしたら、そこで満足してはならんと。さらにその先を目指しなさいってことになる。その先に、じゃあ何があるんだといったら、それは結局一歩進むということは、向上して、向上して、仏の世界に近づいたその状況、境遇から、今度は一転して、この民衆の世界、学生なら学生、庶民の世界に目を向けて、そこで、彼らのために、彼女たちのためになることを施しなさいということになるんですね。
そうすると欽ちゃん、さっきお話ししたような利他の世界ですよね。他者のことを考える。他者の世界を考えるという方向に自分自身を振り向けることができたら、進一歩なんです。悟った人間がさらにその先を行くというのは、結局は民衆のためにその力、あるいは培ったものを今度は提供するということになる。だからこれが禅の心ですよね。

萩本:僕ほら、全部1年ときに試験で逃げるっていう、もう週刊誌で「僕は勝つか逃げるかだから逃げる」っていって、随分捕まりました。先生に。
来週試験っていったらね、俺、帰ろうとすると先生がね、「ちょっと待て、欽ちゃん、逃げるのか」って言ったから、「当然」って答えたら、「待て。逃げるはよせよ」って言うの。「そんなに難しいことをやってないんだから」「でもね、1つだけでは嫌だ、全部分かんないとやだ」ってね。

長谷部:そうでしたね。

萩本:でもね、僕はむしろ駄目な生徒をね、ちょっとやってみようと思ったとこがあるんですよ。そうすると大学ってどういうふうに扱うんだろう。バカはバカ扱いするのかなと思ったら、仏教学部の先生は優しい。みんな俺に「ちょっと待て」って。「投げるんじゃない」ってね。これでね、ああ、勉強しようと思ったの。こんなに心配してくれてるとこで、この心配してる人に30点、50点、70点、80点は取らないって決めたの。普通だったらちょっと待てって言わないよ。

長谷部:言いませんよね。

萩本:ああいう人間関係で勉強したくなるというね。ほんとに4年間、ありがとうございました。

長谷部:いやいや。

萩本:最高に楽しい大学生活でした。

長谷部:私というか、大学側からも欽ちゃんにありがとうございますと申し上げたい。禅の世界とユーモアって、必ずしも結び付かないイメージがあったんですね。でもそれがとても身近に感じられるようになったのは、萩本欽一さん、欽ちゃんのおかげかなって思うんです。単なるお笑いをとるようなユーモアではない。何かこう考えさせる。欽ちゃんの芸もそうなんですけどね、私の見る限り。とっても考え抜いてるんですね。ここでこういう状況の中ではどういう言葉を掛け、どういうふうなパフォーマンスをするかって、ものすごく考え抜いているように見えて思えて仕方がないんですね。即興のようで即興じゃない。笑いというものを行として考えている証だと思うんです。単なる才能だけじゃないと思ってるのね。

共通する禅とお笑いの魅力

萩本:長谷部先生がね、「卒論は笑いで書かなきゃ駄目だよ」って。「仏教を粋な笑いに話せるような、そういう卒論を待ってるよ」って言ってさ。それで去っていくんですもん。相当難しい宿題もらってね。でも、先生から笑いという言葉を頂いたっていうのはもう大変感謝してますよ。

長谷部:ああ、いやいや。そこにペーソスがあるというのかな。ほろっとさせる、頷かせる部分が欽ちゃん流、欽ちゃん節だと思うんですよ。単なる落とし噺ではなくて、落とす背景にあるいろんなことを考えながら、人々をある意味では救ってあげるっていう思いがどこかにあるんですね。そういう救いの論理というか、考え方が背景にあるから、みんな欽ちゃんの言葉に引き付けられるというのはあると思う。
禅もそうだと思うんですよね。慈悲の心というのが背景にあるからこそ、知恵が生きるわけだし、だから知識だけじゃいけません。それを知恵にするっていうのは裏返せば慈悲の気持ちですよね。人をそういう思いにさせてくれる、させてあげる。そういうふうな部分がないと人はついてこない。だから禅の魅力も笑いの魅力も、ある部分共通してるなというところをとてもよく我々に伝えてくれてるメッセンジャーの役割を欽ちゃんは果たしてくれてきたし、今もそうだと思ってますね。

萩本:いやあ、こういう話が聞けるだけでね、面白いから。たくさんいろんな先生と出会うのがいいですよね。

長谷部:そうですね。

萩本:できれば、お忙しいんでしょうけれどね、先生の授業を夏休みとかに、ぜひ、また。

長谷部:いいですね、それもね。考えましょう。

萩本:どうも先生、ありがとうございました。

長谷部:どうもありがとうございました。


萩本 欽一

駒澤大学 仏教学部 4年生

日本を代表するコメディアン、司会者、演出家。2015年 駒澤大学仏教学部に入学し、現在も在籍中。大学生活を書いた著書に『欽ちゃんの、ボクはボケない大学生。 73歳からの挑戦』(2016年/文藝春秋)等。

長谷部 八朗

駒澤大学 学長
駒澤大学 仏教学部 仏教学科 教授

駒澤大学仏教学部教授。2016年より駒澤大学学長。仏教を中心とした宗教の社会的役割・機能に関する理論的および実証的研究をテーマに研究を行う。著書に『祈禱儀礼の世界-カミとホトケの民俗誌-』(1992年/名著出版)等。

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